芸術とは
「人生は芸術である」とはかねて九鬼周造(京都銀閣寺近くに菩提寺法然院 )が言った。 フランスの詩人ポール・ヴァレリーはかって「はじめに神話ありき」とおしゃった。かの有名なゲーテも「はじめに行いありき」と宣っているが、これらは新約聖書ヨハネ伝冒頭の「はじめにことばありき」にならったものである。アルキメデスが亀よ噛め、噛みきるまで噛めと言った哲学する小部屋。1たす1は何故2でなければならない。3であっては何故いけないのか。ウサギと亀のパラドックス。スタートで出遅れたウサギは如何に早く走っても永遠にカメに追いつけない。有限な物を無限で乗ずる、対象違いの場のパラドックスである。
九鬼周造は魯山人(北大路魯山人)と同様その出自にいろいろと問題を含んでいるようだが、哲学の道を歩み、西田幾多郎等と共に京都学派の一翼を荷っていった。進歩的な河上肇の墓もここ法然院に見られるが、こちらの方は訪れる方が多いのか現在でも新しいお花と線香の香りがいつも絶えないようだ。哲学も芸術も同一の分野かもしれない。芸術も哲学の分野の一部を形成するのだろう。周造も魯山人も自分自身の心に正直である。変に妥協することを知らないようだ。周造は始めの妻を離婚し、2度目に貰った妻は祇園の芸者さんだった。とうじ周造は帝大の教授であり、まこと芸術も哲学の一分野かも知れない。世間の風習に拘らない孤軍自立の精神を持ったのはよいが、社会的秩序と言う点からすれば如何なものだろうか。しかし、昔の人は偉い。祇園から通学した兵(つあわもの)もいたという。
芸術とは何ぞや。命題が難しすぎてその概念は不特定である。人間を喜び楽しませる媒体であって、そのもの自体に実存がある。実存はほぼ永遠に継続し歴史を形成して行かれる。ここでは真贋を問わない。喩え真なるものでも、その心のエネルギーを吸収させるとは限らない。贋なるものはエネルギーに乏しいと表現されるが、これも受取側の問題で、各個人の受容状態と合一すればそれで十分ではないだろうか私はフェミエール)。混沌の世の中、なにが正で何が誤かは判然としないし、二者専一を問うほうが間違いかもしれない。
19世紀後半にイギリスで興ったデザイン運動「アーツ&クラフツ」の広がりを、ウィリアム・モリスを中心とするイギリス、ウィーン工房がひときわ輝いたヨーロッパ、そして民芸運動が花開いた日本での美しい作品からたどる展覧会である。装飾芸術の殿堂、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館(V&A)との共同企画で、V&Aと国内の美術館などから、家具、テーブルウェア、ファブリック、服飾、書籍やグラフィック・デザインなど約280点を一堂に出品している。必見は、柳宗悦らが昭和初期に建てた「三国荘」(みくにそう)の再現展示で、柳の収集品や若き濱田庄司、黒田辰秋らの作品で飾られた室内には、民芸の原点を見ることができる。手仕事の良さを見直し、自然や伝統に美を再発見し、シンプルなライフスタイルを提案する。アーツ&クラフツが生み出した精神は、現代の生活に影響を与えながら、今なお遠い理想のようにも映える。モリスや仲間たちが作り出した家具や壁紙、当時の最先端都市ウィーンの前衛的な家具やグラフィック、「用の美」を見出した民芸の美意識を味わいながら、生活のなかの芸術について思いをはせる機会となれば幸いであろう。
芸術(げいじゅつ、希: η τεχνη、 techne、羅: ars、英: art)とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者とが相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動である。美術、文芸、音楽、演劇などなど。とりわけ表現者側の活動として掴まれる側面が強く、その場合、表現者が鑑賞者に働きかけるためにとった手段、媒体、対象などの作品やその過程を一般に芸術と呼ぶ。表現者が鑑賞者に伝えようとする内容は、信念、思想、感覚、感情、など様々な状態である。
芸術作品とは主として美を創造するために人間が行った行為により生み出された作品である。
芸術を定義する哲学上の試みとしては、模倣論、均斉論、表出論、現象論、異化論などの立場が歴史上存在する。(哲学 ギリシア語philosophiaに由来する。直訳すると愛知。諸学の源であり根本である。)
人間とはその意味
ある活動や作品が芸術であるか否かについて、必ずしも誰もが同意する基準があるとは限らない。表現者側では、その働きかけに自分の創造性が発揮されること、鑑賞者側ではその働きかけに何らかの作用を受けることなどが芸術が成り立つ要件とされる。これに関して、表現者側では、自分の作品を構成するにあたり、先人の影響を受けたり、既に様式が決まっている表現方法、媒体を用いたりすることはよく行われるので、必ずしも表現の内容が完全に自分の創造性にのみよっているとは限らない。また鑑賞者側が、その表現が前提としている様式の暗号を知らないと働きかけはうまくいかない。
誰にも止められない 「芸術言語論 沈黙から芸術まで?」
桑原武夫(次郎は桑原のフランス文学史の講義を1年間受けた。緻密な計画性のある桑原武夫が仏文の人だった。)は作者の名前がわからなければ評価されないようなものは「第二芸術 」だと言った。では、第一芸術とはポールマリー(ポール・マリー・ヴェルレーヌ) やバルザックなどはこういった表現を用いたが、対して小林秀雄は「日本の芸術は短くすることによって(短縮)」自己表現とした。横光利一は純文学として下げずに大衆小説(通俗小説 太宰治)を機能的な点による価値評価に対して、西欧的な価値に対して、苦悩を表現し、初期に無意識な言語芸術としての作がある「東京八景」「富嶽百景」を推薦、ここに芸術言語があるといった。
芸術の本質
芸術の本質は人間を喜び楽しませるものでなければなるまい。美しいものだと心に昇華させなばならない。美しいものとは、単に美しいものだけではなく、人間の真心に感動を与えるものであり、作品のエネルギーが直接人間にショックを与えるものでなければなるまい。美と醜とは背反するものだが、ここでは人間(心)に与えるエネルギーを持つ限り一つのものである。芸術とは受け取る側(人心)と、いわゆる芸術作品との関係と取り持つものである。あまりにも強烈しすぎて心の束縛から解放されがたい場合もある。
「芸術と自治体―文化ホール乱立の時代に」
<2006年11月 奈良県公立文化施設協議会主催の職員研修で浅野詠子が講演要旨>
昨年私は、新聞連載「文化ホール展望―財政危機と住民参加」に取り組み、これがきっかけになり本日ここに招かれました。この連載の狙いのひとつは、このおよそ10年における自治体文化ホールの建設ラッシュにおける重大な背景として、建設資金の相当部分が地方交付税で充当されているという事実を明るみに出し、まずは建設の成り立ちを冷静に見つめようということです。多くの県民は恐らく、地方交付税と言えば山村など税源の乏しい自治体が都市の住民と同等な行政サービスを受けるための原資という理解をされていることでしょう。もちろん、それが交付税の主要な役割ですが、総務省が主導してきた「地域総合整備事業債」(地総債、現在廃止)という制度は、文化ホールなどの箱モノ建設に伴う資金の約半分程度を地方交付税で自治体に戻します。つまり、自主財源が比較的豊かな都市部の自治体であっても、箱モノをつくるときに「地総債」を使えば、相当のお金が交付税で保障されました。このような制度に支えられ、狭い奈良盆地で文化ホールが林立するようになったのです。建設する目的が単に公共投資でしかないのなら、ひとたび自治体財政が悪化すれば削りやすい文化・芸術予算から切ってししまうといのは、火を見るより明らかであります。
自治体文化ホールの本来のあり方は、質の高い芸術でしかも公演の効率は悪く採算が取れない分野を、住民から広く薄く集めた地方税を生かして運営するものだと私は考えます。最近は、民間企業やNPOが自治体ホールを経営できる「指定管理者制度」が導入されましたが、優れた直営ホールのいくつかは生き残ってほしいですね。それと、指定管理者制度の特徴を十分に活用するならば、なにも遠い東京都にお金が落ちるような法人に経営を任せなくてもよいのではないか。本県内の直営ホールのうち、力のあり余っているホールが苦戦しているホールを支えるようなかたちで指定管理者になるのはどうでしょう。奈良県全体の芸術力が高まるのであれば、そんな選択肢もよいのではと思います。指定管理者制度の長所、短所というものをいま一度、冷静に見つめたいものです。と申しますのも、国が自治体に推奨した箱モノ建設の「地総債」などは維持管理費用の支援があるわけでなく、相当な問題を残していますから、まるで「ポスト地総債」のように国が講じたこの制度には即座に飛びつく気持ちにはなれません。
市民力を発揮しているか。
文化庁が以前に実施した観賞ニーズの動向調査では、トップは美術でした。2位は演劇、そして3位は映画。ようやく4位にクラシック音楽がくるのです。ではなぜ、私たちのまちは音楽中心の文化ホールに投資の比重が高いのか。住民の素朴な問いかけに対して、強力な回答ができない自治体が相当あるのです。 「何のための文化ホールか」という明確なメッセージに乏しい。これこそ、いまの自治体に問われるところでありましょう。仮に美術の分野に自治体文化政策の予算の比重が高いとしたら、まちづくりとの関連で住民に説明しやすいかもしれません。住民の美意識の方向によっては、高速道路は地下化が促進されるでしょうし、屋外広告物条例の運用に対する眼も厳しくなっていくでしょう。学校給食の食器のデザインひとつとっても美術と関係していますね。音楽中心で悪いということ決してありません。しかし本県内の自治体はせっかく文化ホールに巨額の投資をしながら、自主事業に積極的な市町村は少なく、プロモーター任せの興行に陥りがちな上、乱立のあおりで各ホールの利用率は低迷しています。「このままでいいのか」と住民が問いかけたとしても、たいてい行政の側というものは「住民のみなさんが直接、投票で選んだ議会が議決したことです。住民の意向を反映しています」などと、聞く耳を持たないでしょう。議会中心の間接民主主義をもって住民参加は事足りるという訳です。ところがですね、その地方議会の構成を見ますと職業に著しい偏りがある。納税者の80%近くは会社員なのですが、議会はそうではありません。まして奈良市議会をはじめ多くの議会が昔から建設業の議員の比率が高いですから、箱モノ建設の促進には熱心であっても、その中身の芸術のあり方は議会でほとんど問われなかった。ですから、文化ホールの改革は議会改革と両輪なのです。もしサラリーマンが社内の地位を失わずに一定期間、自治体の議員活動ができるようになれば、地域の文化・芸術政策は大きく変わるように思います。ところで近年の首長選では、深い芸術論議なしにホールの建設投資額の大きさ、あるいは維持管理費の大きさだけで敵方を攻撃するという事態を、いくつかの市町村で見受けました。建設ラッシュと申しましたが、この中には首長が熱意を込めてつくった文化ホールもあるわけですが、建設後の首長選挙において敵方の陣営が「文化ホールは税金の無駄遣い」と納税者のウケのよい言葉で手厳しく非難し、これが直接の勝因かどうかは分かりませんが、ある新人候補が当選たのです。この新しい首長は、政敵がつくったホールはも愛せないようで、「ホールの運営に力が入らなくなった」と地元の音楽家が嘆いていました。税金の無駄遣いという指摘は、公共事業のばらまきが目的で建設し文化ホールの経営哲学がないときには妥当ですが、政敵がつくったものは愛せないというような首長の姿勢では、文化を享受しようとする住民には不幸なことであります。たとえ明日、首長が交代しても、動じることなく輝いているホールかどうか。市民とともに経営しているのかどうかが問われますが、今日のキーワードで申せば「協働」という概念です。市民力というものを自治体はどれだけ発掘しているでしょうか。市民が深く参画しているホールであれば、長が交替しても、そう簡単にはゆるがないと思うのです。市民の知恵の総力を上げてホールを育てたいものです。
「奈良らしい」音を365日
では具体的な提案をします。徳島市に出掛けて感心したのですが、阿波踊り会館というところでは365日、阿波踊りを鑑賞することができるのですね。踊りが本番の八月だけでなく春夏秋冬、いつ徳島を訪ねても「徳島らしい」芸能にふれることができる。奈良県はいま、これだけの文化ホールが林立してきましたから、365日、県立・市町村立のホール持ち回りで、どこかのホールで必ず「奈良らしい」音や芸能を奏でることを提案します。「奈良らしい音」…。それは雅楽でも、正倉院の楽器の復元演奏でも、そして能や狂言、人形浄瑠璃、農村に伝わる地味なお神楽でも、広範囲に私は想定しています。奈良発祥には厳格にこだわらず、歌舞伎や民謡もよい。和の音なら何でも、「奈良らしさ」と結びつけることができますね。365日続ければ、奏者や踊り手が育ち、観光客は音の心に触れて旅の満足度もきっと増すことでしょう。奈良を邦楽のメッカにする気概で試みてほしいものです。観光振興策と重なりますが、本県の自治体の文化政策は観光部局との連携は不可欠です。そうでなくても財政当局は文化予算を真っ先に削減しようとする傾向がある。付加価値のありようは大事であります。狭い奈良盆地に林立した自治体のホールが似たような洋楽の演目で競合するのでなく、箱モノの投資をもっとプラスに転じることはできないものかと考えております。無形遺産について、印象に残る話をします。古都奈良の文化財が世界遺産に登録されたのは1998年のことであり、奈良市は県の力を借りずにいわゆる“単独申請”に努力しました。いよいよ登録が実現するという前年、遺産保護のあり方をテーマに市民向けの講演会があり、奈良文化財研究所の所長だった田中琢先生がお話しされました。世界遺産の保護は従来、有形遺産を重視する欧米型の考え方が中心でまよね。田中先生は、昭和25年にわが国が文化財保護法を制定したときのことを振り返り、「無形文化財という制度を盛り込んだ先人は素晴らしい」と評価し、「アジアは自然と文化が切り離せない。これからは米国流に流されず、日本、そしてアジアの視点で遺産保護の提言をしなければ」と語られました。当時の筆記録の断片はいまも残しています。無形と有形の遺産が相補ってこそ奈良の文化財の真髄があり、「奈良らしい」音を絶えず響かせましょう。
文化ホール起点のまちづくり
「でも予算がない」と担当職員は真っ先に申すでしょう。これからは地方交付税は削減の度合いを増すだろうし、国庫補助金もそうあてにはできない。肝心な地方への税源移譲はといえばこれも期待できない。まるで自治の冬のような時代。しかし地方分権のうねりというものは確実にあるのです。自治体自らが文化予算の一部を創出するのだという強い意志があれば、公募債も発行できるし、文化政策の振興を目的とした「法定外目的税」の創設も分権一括法の施行で可能になりました。そして文化芸術に対する市民の純粋な寄付行為を税制とリンクして育てることも大切です。とかく文化政策を審議される先生方は、財政の観点で論じることを軽視されるでしょうが、地方分権そして財政民主主義の潮流はこれからの自治体文化政策と決して無関係ではないと考えます。まずこれからは、文化ホールを起点にまちづくりを進めてほしいと願います。最近の自治体ホールはどこも一流の建築家が設計しますから、とかくデザイン優先であり、少し進みすぎたようなやや前衛的な外形もある。そうした建物を地域になじませるためには、文化ホールの周囲をまず緑豊かに植樹し、それぞれの市町村の中で一番美しい公園にしてほしい。市民が近づきたくなる空間になると、きっと中の音楽を聴いてみたくなるものです。ですから公園緑地課の重点課題のひとつに文化ホールの周辺整備を位置づけるべきであります。奈良公園はだれもが認める美しい公園です。そこにある奈良国立博物館を思い出してください。あの建物は100年前、片山東熊という赤坂離宮を手がけた建築家が設計しましたが、当時は「バロック様式であり西洋風すぎて奈良公園の景観にそぐわない」という厳しい反対意見が渦巻いていたといいます。しかし100年を経たこの建物は、奈良公園に調和した堂々たる風格ですね。それを思えば、いまの文化ホールも100年ががりで育てる気概で、いつも100年先を見てホールを育ててほしい。このように、私はホールの「外」を結構、重視しているのです。身近な事例では、奈良女子大学の木造の記念館で昨年、ベートーヴェンのチェロソナタの演奏会が行われましたが、これも100年くらいの建物ですね。国も最近、気前がよくなったのか、あの重要文化財の建物を室内楽の演奏会場に開放しました。民間団体の主催です。木造の文化遺産でクラシックなどやると観客の満足も相当なものです。そして演奏が終わって外に出るとキャンパスの木立に見送られる。それに最寄りの公共交通機関の近鉄奈良駅まで歩いて五分ほど。大学を出て「東向北商店街」を通るのですが、歩いて気持ちのいい商店街です。歩道や街灯もレトロなデザインに改修しています。音楽を聴き終えてまだ夢の世界にいるころ、木立に見送られるのはいいものですね。奈良町の町家を会場にしたバイオリンの演奏会も良かったですし、私も橿原市今井町にある木造遺産「華甍」を会場に、知人らと地方自治をテーマに小さなシンポジウムを主催したことがあります。地方自治の課題という、とかく刺々しくなる題材を落ちいて語り合えた。地域の木造資源を会場にした音楽や色々な文化行事はニーズが高まると思いますが、そこは文化ホールの敵とみなさず、文化ホールのノウハウを積極的に提供して頂き、応援してほしいです。木造の地域資源と共存する関係を深めてください。公共の文化ホールの先進例などはインターネットで検索すれば瞬時に知ることができる時代ですが、奈良は奈良の成り立ちがあり、いまはそれぞれのホールの欠点を直視して、本日の協議会のような場で出し合うことも大切です。利用者や住民からホールの欠点や要望を積極的に聞きだして、それを公開し共有すれば自ずと解決策は見えてくるように思います。建物中心主義の欠点、演奏者中心主義の課題、多目的ホールの疑問などいろいろな課題が出くることでしょう。さて、直接の演目でなく、芸術を深く理解するための支援、いまふうな言葉でアートリテラシーでしょうか、そんな要望もきっと高いはずです。国勢調査などの結果では、自分自身の職業について「私は芸術家である」と名乗る人の割合が増えているとも聞きます。芸術家は首都圏に一極集中だと言う人もいますが、アートリテラシーの担い手になって頂ける地域の隠れた芸術家を発掘しましょう。ある休日、私は県新公会堂で奈良金春会の演能会に出掛けましたが、上演に先立ち能楽師の金春康之先生の解説がありました。印象深いのは海外公演にまつわるエピソードで、フランスと米国における能の鑑賞態度の相違について語られました。米国の都市では、「公演の前に詳しく能のストーリーを教えてほしい」という要望があったそうです。しかしフランスの方は、パリだったと思いますが、「公演前には一切、能のストーリーのような解説は要らない」と。ありのままを感じ取りたい…。そのような姿勢だったと思います。いかにも芸術立国のような風格ですね。どちらの国民の鑑賞態度も正しいのでしょうが、金春先生は米国流の鑑賞態度を支持しました。なぜかといいますと、能という芸術は筋を追うものでなく、能楽師が演じる心の動きをじっくり鑑賞してほしい、それゆえ、ある程度の筋書きというものを承知しておいてから鑑賞してほしい、そのように語られたと思います。このようなひとときに私はアートリテラシーの大切さを感じます。文化ホールはまちづくりの起点と申しましたが、文化と芸術の学校として発展してほしいです。
この短い時間では語り尽くせませんが、本日の冒頭、質の高い芸術で採算の取れない分野を上演する自治体ホールの意義に触れました。いまは、ホールの累積赤字の問題に視点が集まりがちですが、一つの施設が赤か黒かということより、真に優れた文化ホールであれば周囲におのずと人や地域経済が集まり、自治体全体にとってはプラスの躍動的なまちを形成していく誘引になること、そこに私は期待します。近年は文化経済学というジャンルが注目されるようになりましたが、本日の私の話の半分くらいは地域経済を意識したものです。ご清聴ありがとうございました。
芸術を一言で表現するのは難しい。まず不可能だろう。これは作り与えられるものではなく、自然と沸き起こってくるものなのである。ある意味自然現象なのだ。
(文中敬称略)