生と死の狭間 工事中 
人間の生とは死とは何ぞや。永遠の命題だ。この中にはいろんな意味合いが存在する。哲学的意味合いもある。純粋科学的(医学的)生と死、宗教的生と死、社会制度的(社会法制的)生と死と「生と死」の問題を整理しておかねばならない。いづれの場合も生と死は両立するものではなく生から死へと一方的に変化する。現在の医学的科学水準では、逆の通路はあり得ない。
医学的には死の3徴候(瞳孔対光反射消失・呼吸停止・心停止)である。ところが世の中科学の発展とともに難しくなってきた。社会的、法制的死の定義である。心臓は鼓動を続け呼吸の補助装置の助けを借りながら健やかに機能している。此処で脳死の判定である。医学とは別に法律に基づいて脳死の判定が行われる。つづいて社会的同意である。改正臓器移植法にもとずいて社会的秩序のもと平等の精神で判定が行われる。いささかも私意が介在してはならない。100%の合意が必要で後刻誰からでも不同意の意が示されてはならない。日本臓器移植ネットワークは8月9日、本人意思が不明な患者に初めて家族の承諾で脳死判定を行い、法的に脳死と判定されたと発表した。改正移植法ご初めてのケース。今回はTV観賞中家族に臓器提供の意思を伝えていたと報道されているが、最低限家族との納得の合意が必要だ。
医学的研究と実際の移植とは別問題だ。研究者にとっては流行りたい気持ちの先行する部分はやむを得ないだろう。しかし自己尊大ではあってはならない。謙虚であるべきだ。自分の正しい道を歩むのは結構なことに違いないが、何事にも世間一般の同意が必要だ。病気腎移植の問題、生殖医療の問題全てがそうである。全国民の同意の上施行さるべきで一部思いあがった一部医師達の独断ではあってはならない。こうした手続きを踏むことが確実に医学の前進への一歩となるのであって、たとえそれが歴史的に正しいものであっても、自己独断は医学の進歩に水を差す結果となるようだ。札幌の和田移植事件がそうだ。最近では宇和島徳洲会病院関連病気腎移植事件がそうだ。なぜ国民総意が得られるまで待てないのか、理解に苦しむ。けっして医師の独断ではあってはならない。自我独尊はこの場合流行らない。(2010.8.15)
脳死移植法が改正されて続けて2例目の脳死移植が実施された。この2例目は臓器移植ネットワークではその詳細を発表しないという。こんどはだんまり戦術だ。本人の意思確認は出来ず、家族だけの同意だけで施行された。これにはいろんな問題含みだ。家族は十分医学的素養があり、脳死の意義意味合いを十分理解しえたのであろうか。短い制限された時間の中、医学的説明が十分尽くされ家族側もそれを素直に理解しえたのか。押し付けであってはならない。次郎さんには理解に苦しむ。悪く考えれば家族は旨く騙され上手におだてあげられたのはないだろうか。なんでもかんでもドナー側の責任にしてしまそうな雰囲気が感じられる。これらが昂じていくと世の中魔女狩りが流行し、臓器移植に参加しなければ魔女として追及されかねない雰囲気に持っていかれる。家族が社会正義に反する行為と追い込まれないためにもことに次第を公表すべきだ。まあ移植ネットワークのやることでそこらあたりの配慮は十分取り入れたマニュアルがあるに違いないだろう。マニュアル自体の公表も必要かもしれない。2010.8.20
この1カ月の間に脳死移植が5例も行われた。結構なことだ。ただ本人の同意書が無く家族の了承だけで行われた。脳死宣言もどういうように伝えられたのか、移植ネットワークのベテランコディネイターのことだから抜かりはあるまいが情報の公開も進めてほしい。後から何か疑問点が出てこないよう、全ての情報公開をすべきだ。
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