前立腺がんは怖い病気 ある友人の死
古い友人は逝ってしまった。前立腺がんで逝ってしまった。まだまだ若く人生もこれからだというのに。
約数年前松江で開かれた学会でお会いした。その1年ほど前に電話で話をしたような記憶がある。前立腺がんでPSA値が高いという。でも次郎の時と条件が違う。ここ数年間のこの分野での医学の進歩は物凄い速さだ。特に前立腺がんに関する考え方も随分と変化したようだ。前立腺がんなんてがん、悪性腫瘍の範疇に入らないと暴言する学者まで出てきたようだ。確かに、ガンの中では足の遅い、特効薬リュープリンもあり、半悪性な部類に属するかもしれない。でも途中何をしでかすかも分からない暴君でもあるのだ。特に骨への転移は十二分に留意すべきだ。
この時は保存的治療でPSA値が劇的に下がり喜んでいた。そらそうだろう薬物療法でPSA値は上手くコントロールされるようになったが油断は大敵だ。分子生物学者である彼には、次郎のようなズブの素人が口出す問題ではない。十分に気をつけるようにとだけつたえた。彼は未だ50歳になったばかりだといった。子ども四人おり、一番下は小学生だという。やはり自身が病気になれば家族のことが気にかかるらしい。次郎さんもそうだった。次郎が初めて病気(電劇性肝炎)になったのは40歳頃、それより10年以上位しかたっていない。自分が死んだら家族はどうなるのだろうか。心配なことはよく判る。自分ひとり死んでいくのは我慢できても家族の将来が気になる。人間のDNAがどうとか、Y染色体(岩波書店日本人とY染色体)がどうとか論ずる前に自分自身のDNAをまず考えるべきだった。それから色んなことがあったようだが、詳細は判らない。
彼は大学卒業後小児科学を専攻して学んでいた。静岡の国立病院機構の研究所に勤務の後、新しく開設された母校の人類遺伝学教室をえて四国のT大学に迎え入れられた。未だ若干30歳代の前半である。医学部の世界では、田舎の大学とはいえ国立大学に、この若さで迎え入れられたのは異例中の異例のことだった。少壮気鋭の学者とはいえ、人間のDANやRNAの勉強をしてたのに、まず第一に自分自身の遺伝子学的検索をまず考えるべきだった。書籍日本人のY染色体(岩波書店)の恵送を受けていたが難解でいまだ読んでいない。
今年(2009年)に入ってから具合が悪いと風の便りに聞いた。でもこんな結果になろうとは想像もしなかった。最後は全身転移して苦しんで死んだそうだ。まるで彼の親父とそっくりな経過だった。自分自身は理解していたようだが、何らかの助け船を出すことも出来ず、知らないままいってしまったのは、かえすがえすも残念でならない。彼自身は前立腺がんの専門家ではないが、分子レベルのスペシャリストであり、治療計画、ことに抗がん剤の使用計画を自ら立案して実行したらしい。詳細は解らないが小細胞がんだったという。GleasonのGradeは腺癌に対するものであるが異型がんでは小細胞がんといえばGleasonGradeXに属するものだ(日本泌尿器科学会雑誌)。最悪のケースだ。52歳の若さで、3ヵ年余りの長い闘病生活で疲れ果てたのだろう。無念だったに違いない。安らかに眠ってくれ。
素人考えではPSA値と病状(前立腺がん)は平衡すると思うのであるがどうだろうか。彼の場合最後までPSA値は最低レベルだったようだ。PSA値が低いといって安心するわけには行かないようだ。PSA値が低いまま骨等への遠隔転移した報告・文献は沢山見られるようだ。この場合、前立腺がんはほぼ治癒したのに、ほかに何処かで小細胞がんができ腰椎や胸に転移してきたのだろうか。
1年ほど前から仏教に懲りだし、本願寺で得度をしてもらい、仏壇まで用意していたのは、自分自身がその道(がんの分子レベルでの治療)の専門家であり、病状の経過をはっきりと認識していたのだろうか。死期の迫る中、彼の胸中を察するにあまりあるようだ。不憫でならない。彼の魂の安らかならんことを願って。享年53歳。(2009/4/29)
久しぶりの徳島、駅前のビジネスホテルに宿をとった。通夜と告別式は市内葬儀場でこの地の仕来たりどおり施行された。往年53歳若すぎる。恩師を初め大学の関係者多数の列席のもと形どおりに行われた。生花も50本以上あった。全部同級生からのものだった。肩書きはほぼ全てが○○大学教授となっていた。50歳の前半で医学部の教授とは。恩師は進駐軍だったらしいが同級生が7〜8割以上医学部教授とは。
(敬称略)