次郎の棲家
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倒れかけのオンボロ屋.。次の地震まで持つかなあ。 大和盆地南部、西は大阪府、南は五條市に接するところに御所市はある。今は人口三万余りの小さな地方都市であるが、かつてはこの地区随一の商業都市であった。降水量の少ない盆地の気候から稲より綿の栽培が盛んであり、そこから発展した大和絣の生産の中心であった。また、この地域は富山と並んで古くから製薬(不況で繊維業者が倒産し買薬業に転身)・売薬商の盛んな地であったが、その多くが御所、高取を拠点としていた。 奈良平野最南端に位置する御所は「ごせ」と読み、平野部と吉野山間部の中継地として栄えた在郷町で、江戸初期に桑山氏の陣屋町と寺内町のふたつの性格をもった町として成立したと言われている。 葛城川を堺に西側の町を「西御所」といい、関ヶ原の戦いで功のあった和歌山城主桑山重晴の次男元晴が1万2000石をもって成立した御所藩の陣屋町で、碁盤の目状に整備された町割りや敵の侵入に備えた桝形、遠見遮断など、今も城下町の遺構が残されている。 つぎに葛城川の東側の町を「東御所」といい、町の中心に建つ浄土真宗本願寺派の寺院・円照寺の寺内町として発達。現在も通称地名として「寺内町」という名も残りる。桑山氏は町の経済的発展の為に寺内町の建設を許し、現在の隣の大和高田市も同じ経緯で成立してと言われている。 桑山氏の御所藩はその後2万6000石に加増されるが、跡継ぎに恵まれず無嗣改易となった。以後御所の町は有名な「大和絣」(かすり)などで知られる木綿織業や絞油業、薬業などを中心とした市場町として発展し続けるが近年は近代化に乗り遅れ過疎に喘いでいる。元文5年7月(1740)後に「御所流し」と語られる葛城川・柳田川の氾濫により御所の町は壊滅的打撃を受けるが、その後の急速な復興からも御所の経済的な繁栄ぶりが伺える。 御所市役所から御所駅にかけて残る江戸期からの町割りには旧町名がそのまま残り、伝統的な町家が軒を連ねている。最近になり街並みの重要性が認識され、景観作りが始まったようであるが、街並みに連続はあまりないが個々の建物は歴史を感じさせる重厚な佇まいを残しており、質・数ともに見応えがあると共に、かつての経済的発展と富の蓄積があった時代をうかがい知ることができる。 町並の雰囲気は東西両者ともそれほど大きな違いはない。つし二階造りで袖壁を設け、それには見事な彫刻や家紋があしらわれているものが多く見応えがあった。虫籠窓も矩形の細長いものや、楕円型でごく小さい漆喰で塗り込められていないもの、変形型で中の格子模様に遊び心が見受けられるものなど多くの種類があり、最初は通風・防犯の役割から次第に装飾の意味合いを深めていった様子が伺えて面白い。古い町並は面的な広がりを見せ、辻を曲ると新たな町家が次々と現れてくる。歩くほどに、その規模の大きさを感じさせる。 御所の古い町並は、重要伝統的建造物群保存地区に匹敵する質と量を誇り、散策客が多く訪れ注目されてもおかしくない。しかし家並には外部の眼を意識した色は全くなく、住民は普段通りの生活をしている。このような町並は今や稀少価値のあるものとなった。知る人ぞ知る、取って置きの町並であり続けてほしいものだ。 |
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