平房物語 悪夢のあとさき
ハルビンの街はロシアの影響を受けて大変エキゾチックだと聞いていた。古いロシア教会の素晴らしい建物、エキゾチックな街並み等夢描いていたが、例の5人組時代の紅衛兵達によって打ち壊されてなにも残っていなかった。彼らは歴史的建物は、悪の象徴である資本主義の遺物であり、社会共産主義にはそぐわないとしてすべて葬り去ったのである。いわゆる打ち壊しがおこなわれたのである。
この頃は、庶民の収入は1か月2500〜3000円ぐらい(大学出中堅サラリーマン)でまだまだ個人営業の店なんか数少なかった。でも自由市場は少々高くても、野菜は新鮮でモノが良いと言うことで、大変な賑わいを見せていた。外国人観光客はまだまだ珍しいようで、マーケット見学の我々4人を取り囲んで身動きもとれなかった。人々の服装もご婦人は白いブラウスに黒かベージュのズボン、男性はすべて濃紺かこれまたベージュの国民服(人民服)のみで、色のある服装はまったくひとりも見かけることが出来なかった。市内循環のトローリーバスは2両連結で、乗客で溢れ、終戦後の日本の混乱が想いだされた。でも治安は大変良く、スリなんか1人だっているわけでなく、とくにわれわれ外国人にたいする犯罪は厳罰を持って処せられたようである。
今回の旅行の目的は旧日本軍石井部隊のハルピン近郊の平房を訪ねることだったが,ハルピン外語学院出身の通訳氏にはなかなか通じない。とりあえず平房までいくことにした。ハルピンより時速百KM以上のスピ−ドでこ一時間も飛ばしても何の風景の変化もない。やっとついたが平房のどこに旧関東軍石井部隊がいたのかわからない。附近の住人に聞いて貰ってもサッパリ。日本でしいれていた知識で平房第二十六中学をさがした。これはすぐ見つかった。校長先生はじめ中学の先生方に聞いて貰ったがこの中学の建物が以前何だったか誰も知らない。まだ保存されているはずの発電所跡やそのオバケ煙突もどこにあるのかわからない。のどなか田舎の町。準備不足をなげきながら,帰途町はずれまできたとき,偶然当時の事情に詳しい,老人に出会いオバケ煙突のあるところに案内して貰った。はじめに訪れた中学のほんちかくで構内は草ぼうぼう,巨大な煙突数本が泰然と聳え立っていた。この廃虚は日本帝国の侵略のシンボル云々との中国語による解説案内板があったが,雑草が生い茂りあまり目立たなかった。ここでいろんな医学の実験研究が行なわれたこととう思いをはせながら,この旧発電所構内からでてくると,附近にいる人々の視線がわれわれに集中しているように感ぜられ,肩をおとし,うつむきながら,だれも言葉をはっすることなく帰途についた。どうして附近の人達がこれを知らないのか。寡黙の帰りの車の中で通訳氏は高校時代歴史で学習した記憶があるが,実物をみたのははじめてで一般の中国人はそんな昔のことはみな忘れていると,なぐさめともはげましともつかないことを話してくれた。
もうこのとき日本では森村誠一氏の”死の器”の新聞連載が始っていた。これがのちの”悪魔の飽食”えとなっていくのである。熊の手をはじめて食べたのもここハルピンだった。脱換券一元は日本円八六円位。一ヵ月の給料四十〜六十円位。
最近聞いた話では、この発電所跡、戦争博物館になっているという。旧日本軍石井部隊の関係資料を納め展示されているという。貴重な資料の散逸防止にもなって有意義なことだ。(7/98)